パステルブルーの祝福を

少しずつ文学少女でなくなってくわたしの読書記録です。

人生を覗く

 

わたしは覗き魔だ。

いきなり何の告白だと思われた方も多いだろう。なんだこの変態と踵を返さず、もうちょっとだけ読んでみてほしい。

別にこれは犯罪的な意味ではない。

 

たとえば、人の本棚を覗くことも大好きなことのひとつ。Twitterで本棚の写真をアップしている人がいると、細かく見てしまう。

本好きな方なら「わかる」と言ってもらえると思うが、本棚は如実にその人を表すものだと思う。だから本棚を覗くことは、まるでその人自身のなかみを覗いているようでちょっとおもしろい。

 

そんな風に「人の心まで覗ける」本がある。それがエッセイだ。

もちろん書くからには見せられる部分だけだけれど、その部分を書くと決めたことそのものが「その人」を表していると思う。

全然違う人生をエッセイを通じて覗いてみたり、縁がないような職業の人が実は自分と似ていたり。そんなことを楽しめるエッセイは、わたしにとって色々な人生の覗き窓。

そして、そんな覗き魔のわたしが覗いてきたさまざまな人生たちの中から、今日のおすすめを選んでみた。

 

本日はそんなわたしの「覗き窓」セレクションから3冊。

 

1冊目。

ほんじょの鉛筆日和。本上まなみ

ほんじょの鉛筆日和。

ほんじょの鉛筆日和。

 

女優さんと聞くとものすごくキラキラしたイメージがある。

平凡に生きるわたしとはかけ離れた人種。お洋服も高くておしゃれなものを着ていて、表参道を歩き、移動はタクシー。みたいな。

 

本上まなみさんもきっとそんな感じの方なのだろうと思っていた。美人だし、森見登美彦さんのマドンナだし。

けれどこの本を読むとそんなとっつきにくさとか、遠い存在であるかのような感覚はなくなる。

なんといっても一人称が「オレ」。なんかもうわたしはこの時点で、なんとなく本上まなみさんを好きになっていた。

 

だいたい3〜5ページほどの短いエッセイが詰まったこの『ほんじょの鉛筆日和。

この中にはわたしが「あーわかる!」と思わず言ってしまった文章がたくさんある。

たとえば「おとなのサイフ」という章で書かれたお財布の話。

サイフってその役目を終えると死んじゃうよね。中身を出した途端に「死体」になる。角は擦り切れ色は剥げ、ぶよんぶよんに伸びてゆがんで、やせ細って。でも存在感がありすぎて、ただのゴミにはできないんだよね、どうしても。

だから、前のもその前のもずっと衣裳棚のひきだしにしまってあります。

わかる。わかりすぎる。わたしも前使ってたお財布は未だに机にしまってある。

ペンケースやかばんはそうでもないのに、お財布は古くなると途端に「死んで」しまう。あれはなんでなんだろう。

共感するとともに、その感覚を遠いところにいる女優さんが持っているのが面白かった。

 

もちろんこの本の中には女優さんらしい一面もある。(特にコラム「乾いた水着」は女優さんとしてのまなざしで描かれた、わたしが本当に大好きな話だ)

だけど、巣鴨が大好きだったり、食べ物の話ばかりをしていたり、この本を読んでいなければ知ることができなかった本上さんもいるのだ。

ぜんぶひっくるめて本上さんらしさに溢れたエッセイだ。本当におもしろいので是非読んでみてほしい。

 

2冊目。

『太陽と乙女』森見登美彦

太陽と乙女

太陽と乙女

 

マドンナと並べてみましたよ、森見さん!笑

かなりボリュームがあるこの本は先程とは異なり、小説家としての森見登美彦が見える本だ。

「登美彦氏、自著とその周辺」という章には自身の著書についての言葉が載せられ、森見登美彦ファンとしてもとてもありがたい。

 

ただし心配するなかれ。この本は森見さんの本を1冊も読んでいなくても楽しめると思う。

いろんな人の人生を覗き込むことが大好きで、いろいろなエッセイを読んできたけれど、ここまで"小説家"という人生を感じた本はなかった。

書くということに興味がある人、わたしたちが普段読む小説というのはどんな人が書いてるんだろう?と気になる人、ぜひ読んでみてほしい。

特に最後の章である「空転小説家」はかならず読んでほしいと思う。

 

ちなみに森見さんはまえがきでこの本のことをこう言っている。

「眠る前に読むべき本」

そんな本を一度作ってみたいとつねづね思ってきた。

哲学書のように難しすぎず、小説のようにワクワクしない。面白くないわけではないが、読むのが止められないほど面白いわけでもない。実益のあることは書いていないが、読むのが虚しくなるほど無益でもない。とはいえ毒にも薬にもならないことは間違いない。どこから読んでもよいし、読みたいものだけ読めばいい。長いもの、短いもの、濃いもの、薄いもの、ふざけたもの、それなりにマジメなもの、いろいろな文章がならんでいて、そのファジーな揺らぎは南洋の島の浜辺に寄せては返す波のごとく、やがて読者をやすらかな眠りの国へと誘うであろう。

あなたがいま手に取っているのはそういう本である。

実はわたし自身、この本をまだ読み切ってはいない。寝る前に少しずつ気になる章を読んでいる。

そうやってちびちびと読んでいくという楽しみ方ができることも、エッセイの醍醐味のひとつだ。

順番も特にない。好きな時に好きなところを好きなだけ。そんな贅沢をしてみるのもいいかも。

ちなみに、本上まなみさんのエッセイ『めがね日和』の文庫版に際し、森見さんが書かれた解説も載っている。ぜひこちらもチェックしてもらいたい。

 

3冊目。

『ニューヨークで考え中』近藤聡乃

ニューヨークで考え中

ニューヨークで考え中

 

そもそも文を読むのがあんまり……という方は漫画から入るのはどうだろうか。

 

この漫画の作者である近藤聡乃さんはニューヨークで生活をしている。

ニューヨークというとどうだろう。MoMAやブロードウェイなど芸術的だったり、とにかくお洒落だったりするイメージを抱いている人が多いのではないだろうか。

けれど、彼女から見たニューヨークはむしろ、すすけている……!?

 

とにかく等身大のニューヨークが詰まっていて、私はこれを読んでニューヨークへの漠然とした憧れが違う憧れに変わった。

たしかに芸術が栄えているし、おしゃれな場所も多い。文化も日本とは異なる。でもなんか、思ったよりも地に足がついているのだ。

 

1巻の中にこんな話がある。

日本に帰っても「懐かしい」と感じない。

──と、知ったのは、一年間のNY研修を経て、帰国した時である。

成田空港から実家に帰る道すがら、どこをみても懐かしくなかったのだ。

 

一年ぶりに実家の湯船に浸かっても、

「懐かしくない」

一年ぶりに近所のスーパーに行っても、

「懐かしくない」

 

まるで、昨日までずっと日本に住んでいたかの如く、日本の日常にスルリと戻った。

(中略)

つい、こんな想像をしてしまう。

いつものNラインの帰り道、いつの間にか電車は、日本の実家の駅に着いている。

私はそのまま改札を出て、そのまま何も気づかず日本で暮らしてしまう。

生まれ育った環境は、頑固に身にしみついていて、忘れようとしても忘れられない。

「日本とは縁が切れない」と思うから、外国で暮らしていけるのかもしれない。

わたしは日本以外の場所に住んだことがない。けれど、なんとなくこの気持ちはわかる。

過去になってしまったものだからこそ、懐かしく思う。そしてどんなに時が経っても、自分の中で過去にならないものってあるんだと思う。特に自分のアイデンティティであるものとか。

外国にいるからこそ見えてくるものもあるのかもしれない。(そう思うと自分が行ったことないところで自分探しをすることってあながち間違いじゃないのかも)

 

この漫画を読むと、異国での日常が覗ける。

日本にいては見えてこないことや、日本人が見た等身大のニューヨークを是非この漫画で見てみてほしい。

そしてもう一つ、わたしの推しポイントとして「すべて著者の手書き文字であること」がある。

文字というのはかなりその人が見えてくるものだと思う。エッセイなどだと特に生き生きと伝わってくるように感じる。

 

さて、人を覗く窓となる本三選いかがでしたでしょうか。

人の人生を覗いてみることで、自分についても見えてくることがあるかも。

そしてわたしのこのブログもあなたにとってのそんな覗き窓のひとつとなれたら嬉しいです。

 

一緒に、覗いてみませんか?