人生を覗く
わたしは覗き魔だ。
いきなり何の告白だと思われた方も多いだろう。なんだこの変態と踵を返さず、もうちょっとだけ読んでみてほしい。
別にこれは犯罪的な意味ではない。
たとえば、人の本棚を覗くことも大好きなことのひとつ。Twitterで本棚の写真をアップしている人がいると、細かく見てしまう。
本好きな方なら「わかる」と言ってもらえると思うが、本棚は如実にその人を表すものだと思う。だから本棚を覗くことは、まるでその人自身のなかみを覗いているようでちょっとおもしろい。
そんな風に「人の心まで覗ける」本がある。それがエッセイだ。
もちろん書くからには見せられる部分だけだけれど、その部分を書くと決めたことそのものが「その人」を表していると思う。
全然違う人生をエッセイを通じて覗いてみたり、縁がないような職業の人が実は自分と似ていたり。そんなことを楽しめるエッセイは、わたしにとって色々な人生の覗き窓。
そして、そんな覗き魔のわたしが覗いてきたさまざまな人生たちの中から、今日のおすすめを選んでみた。
本日はそんなわたしの「覗き窓」セレクションから3冊。
1冊目。
『ほんじょの鉛筆日和。』本上まなみ
女優さんと聞くとものすごくキラキラしたイメージがある。
平凡に生きるわたしとはかけ離れた人種。お洋服も高くておしゃれなものを着ていて、表参道を歩き、移動はタクシー。みたいな。
本上まなみさんもきっとそんな感じの方なのだろうと思っていた。美人だし、森見登美彦さんのマドンナだし。
けれどこの本を読むとそんなとっつきにくさとか、遠い存在であるかのような感覚はなくなる。
なんといっても一人称が「オレ」。なんかもうわたしはこの時点で、なんとなく本上まなみさんを好きになっていた。
だいたい3〜5ページほどの短いエッセイが詰まったこの『ほんじょの鉛筆日和。』
この中にはわたしが「あーわかる!」と思わず言ってしまった文章がたくさんある。
たとえば「おとなのサイフ」という章で書かれたお財布の話。
サイフってその役目を終えると死んじゃうよね。中身を出した途端に「死体」になる。角は擦り切れ色は剥げ、ぶよんぶよんに伸びてゆがんで、やせ細って。でも存在感がありすぎて、ただのゴミにはできないんだよね、どうしても。
だから、前のもその前のもずっと衣裳棚のひきだしにしまってあります。
わかる。わかりすぎる。わたしも前使ってたお財布は未だに机にしまってある。
ペンケースやかばんはそうでもないのに、お財布は古くなると途端に「死んで」しまう。あれはなんでなんだろう。
共感するとともに、その感覚を遠いところにいる女優さんが持っているのが面白かった。
もちろんこの本の中には女優さんらしい一面もある。(特にコラム「乾いた水着」は女優さんとしてのまなざしで描かれた、わたしが本当に大好きな話だ)
だけど、巣鴨が大好きだったり、食べ物の話ばかりをしていたり、この本を読んでいなければ知ることができなかった本上さんもいるのだ。
ぜんぶひっくるめて本上さんらしさに溢れたエッセイだ。本当におもしろいので是非読んでみてほしい。
2冊目。
『太陽と乙女』森見登美彦
マドンナと並べてみましたよ、森見さん!笑
かなりボリュームがあるこの本は先程とは異なり、小説家としての森見登美彦が見える本だ。
「登美彦氏、自著とその周辺」という章には自身の著書についての言葉が載せられ、森見登美彦ファンとしてもとてもありがたい。
ただし心配するなかれ。この本は森見さんの本を1冊も読んでいなくても楽しめると思う。
いろんな人の人生を覗き込むことが大好きで、いろいろなエッセイを読んできたけれど、ここまで"小説家"という人生を感じた本はなかった。
書くということに興味がある人、わたしたちが普段読む小説というのはどんな人が書いてるんだろう?と気になる人、ぜひ読んでみてほしい。
特に最後の章である「空転小説家」はかならず読んでほしいと思う。
ちなみに森見さんはまえがきでこの本のことをこう言っている。
「眠る前に読むべき本」
そんな本を一度作ってみたいとつねづね思ってきた。
哲学書のように難しすぎず、小説のようにワクワクしない。面白くないわけではないが、読むのが止められないほど面白いわけでもない。実益のあることは書いていないが、読むのが虚しくなるほど無益でもない。とはいえ毒にも薬にもならないことは間違いない。どこから読んでもよいし、読みたいものだけ読めばいい。長いもの、短いもの、濃いもの、薄いもの、ふざけたもの、それなりにマジメなもの、いろいろな文章がならんでいて、そのファジーな揺らぎは南洋の島の浜辺に寄せては返す波のごとく、やがて読者をやすらかな眠りの国へと誘うであろう。
あなたがいま手に取っているのはそういう本である。
実はわたし自身、この本をまだ読み切ってはいない。寝る前に少しずつ気になる章を読んでいる。
そうやってちびちびと読んでいくという楽しみ方ができることも、エッセイの醍醐味のひとつだ。
順番も特にない。好きな時に好きなところを好きなだけ。そんな贅沢をしてみるのもいいかも。
ちなみに、本上まなみさんのエッセイ『めがね日和』の文庫版に際し、森見さんが書かれた解説も載っている。ぜひこちらもチェックしてもらいたい。
3冊目。
『ニューヨークで考え中』近藤聡乃
そもそも文を読むのがあんまり……という方は漫画から入るのはどうだろうか。
この漫画の作者である近藤聡乃さんはニューヨークで生活をしている。
ニューヨークというとどうだろう。MoMAやブロードウェイなど芸術的だったり、とにかくお洒落だったりするイメージを抱いている人が多いのではないだろうか。
けれど、彼女から見たニューヨークはむしろ、すすけている……!?
とにかく等身大のニューヨークが詰まっていて、私はこれを読んでニューヨークへの漠然とした憧れが違う憧れに変わった。
たしかに芸術が栄えているし、おしゃれな場所も多い。文化も日本とは異なる。でもなんか、思ったよりも地に足がついているのだ。
1巻の中にこんな話がある。
日本に帰っても「懐かしい」と感じない。
──と、知ったのは、一年間のNY研修を経て、帰国した時である。
成田空港から実家に帰る道すがら、どこをみても懐かしくなかったのだ。
一年ぶりに実家の湯船に浸かっても、
「懐かしくない」
一年ぶりに近所のスーパーに行っても、
「懐かしくない」
まるで、昨日までずっと日本に住んでいたかの如く、日本の日常にスルリと戻った。
(中略)
つい、こんな想像をしてしまう。
いつものNラインの帰り道、いつの間にか電車は、日本の実家の駅に着いている。
私はそのまま改札を出て、そのまま何も気づかず日本で暮らしてしまう。
生まれ育った環境は、頑固に身にしみついていて、忘れようとしても忘れられない。
「日本とは縁が切れない」と思うから、外国で暮らしていけるのかもしれない。
わたしは日本以外の場所に住んだことがない。けれど、なんとなくこの気持ちはわかる。
過去になってしまったものだからこそ、懐かしく思う。そしてどんなに時が経っても、自分の中で過去にならないものってあるんだと思う。特に自分のアイデンティティであるものとか。
外国にいるからこそ見えてくるものもあるのかもしれない。(そう思うと自分が行ったことないところで自分探しをすることってあながち間違いじゃないのかも)
この漫画を読むと、異国での日常が覗ける。
日本にいては見えてこないことや、日本人が見た等身大のニューヨークを是非この漫画で見てみてほしい。
そしてもう一つ、わたしの推しポイントとして「すべて著者の手書き文字であること」がある。
文字というのはかなりその人が見えてくるものだと思う。エッセイなどだと特に生き生きと伝わってくるように感じる。
さて、人を覗く窓となる本三選いかがでしたでしょうか。
人の人生を覗いてみることで、自分についても見えてくることがあるかも。
そしてわたしのこのブログもあなたにとってのそんな覗き窓のひとつとなれたら嬉しいです。
一緒に、覗いてみませんか?
かがみの孤城
本屋大賞発表からはや2ヶ月が経った。
『かがみの孤城』というタイトルも、辻村深月という名前も聞いたことが全くないというひとも多分そういないだろうと思う。
だからこそわたしは今、『かがみの孤城』について書こうと思う。
なぜこの本を今、ブログで書こうと思ったか。
それは有名になりすぎて、逆に読みたくないと思う人がいるんじゃないかと思ったからだ。(かく言うわたしもそのタイプで、世間であまりにもてはやされている作品には少し手が伸びにくい。笑)
少し苦手な人が熱烈におすすめしていて読みにくかったりもするかもしれない。
本を読むにもタイミングというものがある。
だから無理して今読んで!というつもりはない。ただ、そうやって遠ざけているうちに、本当に一生読まなくなる本もあるのだ。
そしてこの『かがみの孤城』はそうなるにはしのびないと思う本だった。
だから今読めとは言わないけれど、そっとお家の積ん読に入れておいてほしいなと思う。いつか読みたいと思うその日のために。
前置きが長くなってしまった。
『かがみの孤城』辻村深月著
主人公のこころは中学に行けなくなってしまった。両親の勧めるフリースクールにも行けず、自室で過ごす毎日。そんなある日、自室の鏡が光り、彼女は奇妙な"鏡の中の世界"に誘われるのだった。
そこには狼の仮面をつけた少女"オオカミ様"と、同じように中学に通わずにいる少年少女6人がいた──。
こころたちはオオカミ様に「願いをひとつだけ叶えられる"願いの鍵"を翌年3月までに探す」よう命じられる。
7人が共に過ごすかがみの城での1年間のお話。
不登校の中学生たちと言われると似たタイプを想像しがちだが、そこに集まる7人はかなりバラエティ豊かだ。
こころ。
ジャージ姿のイケメンの男の子。
ポニーテールのしっかり者の女の子。
眼鏡をかけた、声優声の女の子。
ゲーム機をいじる、生意気そうな男の子。
ロンみたいなそばかすの、物静かな男の子。
小太りで気弱そうな、階段に隠れた男の子。
たぶん、普通に同じ教室にいたとしても同じグループにはならないタイプ。
かがみの城に閉じ込められての共同生活だったら、ものすごく仲が良くなるか、悪くなるかの二択だったと思う。
けれどこの城は「9時から17時までの時間厳守」。もちろん城に来ることは義務ではないし、それ以上残ることも出来ない。
この時間を聞いてわたしは、まるで学校みたいだと思った。始業から終業プラス部活までくらいの時間。学校のような場所だからこそ、こころたちは少しずつ関わり仲良くなり始める。
かがみの城は彼らにちゃんと居場所をくれているのだと感じた。
この本を読んでいる人や読もうと思っている人の中には、こころたちと同じように学校に行けない人もいると思う。
学校は自分の全部で、行くのも行かないのも、すごく苦しかった。とてもそんなふうに、「たかが」なんて思えない。
そんな人たちはこの物語を「所詮フィクションだ」と思うかもしれない。
学校に行けず、家で過ごしていても鏡は光らないし、鏡の中にも入れない。学校の代わりとなる居場所なんて用意されていないと、現実とこの小説を比べて嘆くかもしれない。
けれど、あなたにとっての「光る鏡」は意外とそこらにあるものだと知ってほしい。そして、この『かがみの孤城』はその鏡のひとつなのだ。
この物語は何度も何度も「大丈夫」だと教えてくれる。
普通になれなくても。友達がいなくても。心に消えない傷を負っても。クラスに馴染むことができなくても。──学校に行けなくても。
いつかそれらは過去になる。わたしたちはちゃんと大人になって、幸せになれる。
ただそうはいっても、今のあなたにとっては"今"辛いことがすべてなのだと思う。
未来にいいことがあるなんて言われても、今辛くていなくなってしまいたくて仕方がなければその未来に意味なんてないのだろう。
そんな風に思ってしまった時はぜひ、まわりの「光る鏡」を探してみてほしい。たとえば本を読めば、自分と同じような気持ちを抱える人に出会えるかもしれない。街を歩けば、お気に入りの場所が見つかるかもしれない。
あなたを苦しめる今の場所からは逃げてしまおう。
なにか好きだと思えるもの、自分が幸せでいられる場所を見つけて、生きてほしい。
そして、この本はそんな過去を持った大人たちも同じように救ってくれる。
ひとりぼっちで辛いと思っていたこと。普通ではないかもしれないと不安になったこと。今はもう大人になれたけれど、今でも少し心にひっかかることがあるのではないだろうか。
大好きな漫画『3月のライオン』(羽海野チカ著)の5巻にこんなシーンがある。
いじめの標的になった友人を庇い、自身がいじめられることとなったひなた。ぼろぼろになって泣きながら、それでも毅然と「間違ってなんかない」と言う。その言葉に主人公の零は衝撃を受けるのだ。
不思議だ ひとは
こんなにも時が 過ぎた後で
全く 違う方向から
嵐のように 救われることがある
わたしはまさにこの本に"嵐のように救われた"のだった。自分の中で折り合いがついていて、それでも思い返すとあの頃の気持ちが苦々しく蘇るような記憶。それを持っていても、わたしは生きていてよかったと思った。
あの頃の自分は何も間違ってなかったのだと、『かがみの孤城』が肯定してくれたような気さえしたのだ。
あなたの痛みにも、きっと『かがみの孤城』は大丈夫だと声をかけてくれる。
長くなってしまったが、これで他の作品に大差をつけて本屋大賞を受賞した実力は伊達じゃないと伝わっただろうか。笑
こころたちは願いの鍵を見つけられたのか、そして叶えるただひとつの願いとはなにか。ぜひ最後まで見届けていただきたい。
そしてどうか、『かがみの孤城』があなたの「光る鏡」となりますように。
あなたが幸せな大人になって、生きていけますように。
明日、何着て生きていく?
私たちは服を着て生きている。
よくよく服について考えてみると、なんだか複雑な思いを抱いていたりもするんじゃないだろうか。
「かわいい」「おしゃれ」「素敵」な服。
「ダサい」「かっこわるい」「変」な服。
その境目はむずかしくて、着る人によっても時期によっても、合わせ方によっても変わってしまう。
着ないわけにはいかないのに、たまに服なんかもう着たくないなんて気持ちにもなる。
私は服がだいすきだ。
だけど好きだからと言ってイコールお洒落であるというわけではない。(残念なことに)
私は幸いにも周りにあまり心無い人がいなくて、好きな服を好きなように着られている。けど、きっとそうじゃない人もいるんだろうなと周りを見ていると思う。
世の中にはきっと、服を着ているうちに服が嫌いになってしまった人もいるんじゃないだろうか。
今日はそんな人に贈りたい3作品を紹介していく。
ひとつめ。
「ウォーク・イン・クローゼット」 綿矢りさ
主人公の早希の服はすべて"対男用"。
どの服も夢見ている。めくるめく魅惑のデートを、運命の男性を見つける瞬間を。愛する人に抱き寄せられ服ごと逞しい腕に包まれて、ずっと出会えるのを待っていたと耳元で囁かれる瞬間を。
正直に言えば大人の洗練されたデザインの服を着たいなと思う日もあるけれど、結局は「男の人にモテるか?」を基準に服を選んでしまう。
そんな早希の幼なじみのだりあは芸能人だ。仕事で着た後に買い取った服の並ぶ彼女のウォーク・イン・クローゼットはとっても華やか。
(ここの描写は服が好きな人間ならたまらないものなので是非読んでみてほしい)
「働いて手に入れた服に囲まれてると、いままでの頑張った時間がマボロシじゃなかったんだって思って、ほっとする。この部屋でドアを閉めて考え事してると、まだやりたい仕事がいっぱいあるって、むくむく野心がわいてくる。私にとっては、きれいな服は戦闘服なのかも」
だりあの服はきっと自分の努力の"証"でもあるんだと思う。
対男用の服と自分の証としての服。服に求める価値は異なる2人だけど、結局の服の使い方は一緒だ。
私たちは服で武装して、欲しいものを掴みとろうとしている。
私たちは服を着ることで印象を操作する。そう思うとだりあの言っている「戦闘服」というのがしっくりくる。
何人もの人と付き合う早希も、芸能界で波に揉まれるだりあも、たくさん戦わねばならないときがあるのだろう。
そして同じように私たちも戦わねばならないときはたくさんある。そういったときに力をくれるのが服なのだ。
私はこの『ウォーク・イン・クローゼット』の帯文が大好きだ。
誰かのためじゃない服と人生、きっと見つかる物語。
まさにその通りだと思う。
誰のための服を着ているのか、分からなくなってしまった人は是非これを読んで見つけてみて欲しい。
ふたつめ。
「海月姫」東村アキコ
映画化もドラマ化もされていた作品だからご存知の方も多いだろう。
コメディとしてもものすごく面白いけれど、私はこの作品に流れている"服に対する考え方"がとても好きだった。
主人公は"お姫様になれなかった女の子"の月海。くらげオタクな彼女は、同じように"男を必要としない人生"を送るオタク女子たちと天水館で暮らしている。
共に暮らす人々はみんなそれぞれ、おじさまオタクや三国志オタク、日本人形オタクに鉄道オタクと様々な自分の"好き"を持っている。そんな彼女たちの敵は「オシャレ人間」だ。
服をバカにされ、趣味をバカにされ、そうしてリア充やオシャレ人間を憎んできた。
そんな彼女たちの前に現れたのは、まさにオシャレ人間の骨頂とも言えるお洒落を楽しみ、洋服を愛する女装男子・蔵之介。
とある危機に瀕した天水館の住人達と蔵之介は、月海をデザイナーに洋服のブランドを立ち上げるのだった──!!
この作品の面白いところは、服を作ろうとしているのに蔵之介以外誰一人、洋服に興味がないというところだ。
洋服にお金をかけるくらいなら趣味に注ぐ!そう思っている人は現実でも結構多い気がする。
彼女たちはその代表で、年がら年中ジャージだったり、ボーダーシャツにジーパンだったり、地味of地味な服だったり……。
最初はただ蔵之介に言われるがままに洋服を作っていた彼女たちが「服とは?」「どんな服だったら着たいと思う?」と考えていく姿はとても面白い。
(デザイナーの月海自身、最初はただただくらげが好きという気持ちだけで、デザインしてたくらいだ)
月海はシンガポールで、さまざまな民族衣装を着た人々を見る。
彼女たちには信じてる神様がいて
だから自分が着るものが決まってる
あの格好をしてることに理由がある
私は理由なんて考えたことがなかった
安くて 楽で なるべく目立たない地味な色
そういう理由でしか服を選んでこなかった
しかもたぶん 無意識に
日本にはあまり宗教を信じている人がいないから、そういった意味で服を着ている人もあまりいない。けれどそうでなくとも何か信条を持って、その服を着る理由を持って、服を着ている人はいる。
一方で特にそんな信条も持たず、服にも興味がなければ、「その服を着る理由」などない。だから「こんな服が着たい!」という希望はないけれど、とりあえず無難な服を着なければならない。そう考えて服を選ぶ人も少なくはないだろう。
そうして服と関わっていくと、服そのものが分からなくなることがある。人から「ダサい」などと評価されて仕舞えばなおさらだ。
…私みたいなださい人間は何がおしゃれで何がおしゃれじゃないのか全然わからないんです
そんな人たちへ向け、彼女たちのブランドが出した答えとは?
服が大好きな人にも、服が嫌いになってしまった人にも、ぜひ読んでほしい作品だ。
みっつめ。
「繕い裁つ人」池辺葵
最後は服を作る側の話だ。
主人公の市江はオーダーメイドの南洋裁店の2代目主人。彼女はちいさなお店で、お客様ひとりひとりのために服を縫っている。
自分の美しさを自覚してる人には私の服は
必要ないわ
その言葉通り、彼女の手によってつくられた服を着ると、どんなに自信なさげでコンプレックスばかりの人もみんな美しく輝くのだ。
まるでその人に欠けているものをそっと埋めてくれるような服を作ってくれる。
それは人に寄り添い服を作る彼女だからこそできることだ。
『繕い裁つ人』を読んでいると、服は衣食住のひとつなのだということを実感する。
それくらい、生きていくことを支える服が描き出されているのだ。
私知らなかった
洋服でこんなに幸せな気持ちになれるなんて 全然知らなかった
服には多分、それ一発でどん底から幸せに変えるような力はない。けれど、少しだけ気分を持ち上げてくれる。そうすると、どんな憂鬱な日もどんなに辛い日でも少し踏ん張れる気がするのだ。
そうして素敵な服は私たちを少し、幸せにしてくれる。
お客様のひとりの言葉で、私がハッとさせられた言葉がある。
それは自分の体型に少しコンプレックスがある高校生のゆきちゃんが、市江のものではない服を着た時にいう言葉だ。
見てるのはすごくかわいくて飾ってるだけで気分よくなるんだけど
着ると全然可愛くないの 私が邪魔で
身に覚えがある人もいるんじゃないだろうか。ショーウィンドウで見て「かわいい!」と思ったけど試着するとなんかちがう。なるほど私が邪魔だったのだ、とゆきちゃんの言葉で気がついた。
以来私の"素敵な服"は「私が着て最高に可愛くなれる服」だ。
今回は「服」との関わり方を考えられるような作品を紹介してみた。
私は好きな服を着て自分を好きでいることで、幸せになれる。
きっとほかの人もさまざまな思いで服と関わっていくと思う。その思いが幸せなものであればいい。
さぁ、明日何着て生きていく?
呪いと救い。
"呪い"の存在を感じたことはあるか。
私はある。
ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の百合ちゃんも言ってたけれど、私たちの周りにはいろんな呪いがあると思っている。
若くなければ価値がないとか
結婚してないのはかわいそうだとか
女性経験がないのはみじめとか
小賢しいから選ばれないとか
逃げ恥にはいろんな"呪い"にかかった人が登場する。
その呪いは誰かからかけられたものもあれば、自分でいつしかかけてしまっていたものもある。
そうやって自分がかかってしまった呪いは解くのがむずかしい。
人からかけられた呪いなら反発して撥ねのけることもできるけれど、自分で欠けてしまった呪いは徐々に自分を縛っていく。
ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』が一世を風靡するほどの勢いになったのは、みんなどこかで心に呪いを持ってしまっているというのもありそうだ。
(もちろんがっきーがかわいいということは大きい。とっても)
私は原作も大好きだけれど、ドラマのほうが”呪い”の存在を強く感じる作品だった。まだ一回も観たことがないという方は一度観てみるのもいいかもしれない。
自分で縛ってしまった呪いはなかなか解けない。だけどいつか、大切な誰かが解いてくれるものなのかもしれない。
逃げ恥を見てそう感じた。
誰かを好きになることは自分の呪いをさらに強く意識することだ。でも、そうして好きになった人と結ばれることは、好きな人に好きになってもらうことは呪いが解かれるということにもつながる。そう思う。
そんなわけで、
本日のおすすめ図書。
辻村深月『本日は大安なり』
大安の日曜日。
結婚式の会場にもなるホテル・アールマティは大忙しだ。
この本には主に4組の結婚式の様子が描かれている。
それぞれがいろいろな事情を抱えていて、一筋縄じゃいかない様子はとても面白い。
けれど私が特に惹かれたのは、その中の1組「相馬家・加賀山家」だ。
加賀山妃美佳には双子の姉がいる。
顔は全く同じだけれど、太陽のような魅力いっぱいの光を持つ姉・鞠香。その光を反射する月のように生きる自分。
限りなく似ていて、だからこそ違う存在と常に比較されて生きていくのはきっととても辛い。妃美佳は自分が一生処女なのではないかと、そう怯えていた。
私だってしてみたい。誰かに求められてみたい。
世間の一部からは「こじらせてる」と囁かれそうな考え方だけど、私は初めて読んだ時共感しすぎて怖いくらいだった。
"加賀山妃美佳"として、それ以外の誰でもない唯一の存在として愛されたい。その気持ちが痛いほどにわかる。(ふたごがいたらそりゃなおさらそうだろうとも思う。)
そんな妃美佳の話の中で私が最も印象深いエピソードが、姉の鞠香の手によってイメチェンするシーンだ。
化粧というのは、より鮮やかな目でそれまでの目を、より美しい唇でかつての私自身の唇を奪っていく作業でした。
出来上がった私は、「私」を捨てていました。
私もお化粧をする。目を大きく、唇を鮮やかに、頬を色付ける。私自身はお化粧が好きだし、お化粧をすることで一枚薄くてきれいなヴェールを纏ったような気持ちになる。
けれど妃美佳にとってはちがう。
私は鞠香に、されてしまった。
彼女にとって「美しい自分」は鞠香なのだ。
きっとお化粧をしないこと、髪や服に無頓着であること、それは妃美佳にとって分かりやすく「自分が鞠香でなく妃美佳」であることを証明するものだったのだ。
けれどその日から彼女は毎日コンタクトレンズをはめ、お化粧をする。
それは、妃美佳を消してしまう殺人です。
お化粧をして外見を美しくすれば、自分は鞠香のように受け入れられる。それを知ってしまっ妃美佳にとって見た目を繕うことは、"鞠香の擬態"であり、"妃美佳"ではなくなることだったのだろう。
誰かに唯一無二だと、世界で1番愛してると、そう言ってもらえたら。
そうすれば「自分は誰にも愛されない」「自分には価値がない」という呪いが解ける。
今では昔ほどそんな風に盲目的には信じていないけれど、たしかにそれは呪いの解き方のひとつだと思う。
さて、そんな呪いで強く縛られた妃美佳のアールマティでの1日はどんなものだったのか。
思っていた以上にずっと"ややこしい"彼女のした賭けとは?
"呪い"の解き方のひとつとし最高の答えかがある作品だと思う。(現実にありうるかはおいておいて)
ぜひ読んでほしい一作だ。
そしてもうひとつ。
坂井恵理『鏡の前で会いましょう』
主人公の明子はブス。でもそれを自覚し身の程をわきまえて、選択を間違えさえしなければ人生は楽しかった。そのはずだった。
そんな明子がある日、美人の親友まなちゃんと入れ替わってしまう。
明子はブスである自分に折り合いをつけ、自分なりに人生を楽しんでいる。それでもやっぱり美人になってから中身がまなちゃんの自分を見たり、”美人”として扱われたりすることで、ブスと美人の差について、本当の自分の見た目について思い知らされる。
「ブス」という言葉には呪いがかかってる
「お前なんか誰からも選ばれないぞ」って呪い
ブスという言葉をぶつけられた人は感じたことがあるのではないだろうか。
『本日は大安なり』でも触れたけれど、誰にも選ばれないって呪いを打ち消したくて、それを打ち消してくれる他人探してるのだと思う。
明子とは逆に親友のまなちゃんにも"呪い"は
かかっている。
おひめさまになれない女の子だけじゃなく
おひめさまに憧れない女の子も同じように笑われるんだよ
美人なのに外見に無頓着だと「もったいない」と言われたり、恋に興味が無いと「枯れてる」と言われたりする。
そんな場面を誰もが目にしたことがあると思う。
けれど、それひとつの呪いなんじゃないだろうか。
女性の誰もがおひめさまに憧れる必要はない。選ばれなければいけないわけでもない。男性がおひめさま憧れること。誰にも選ばれたくないと思うこと。すべてが絶対にあることで、どれも私たちは自由に選べる。
けれど、そんな自分正しいって肯定してくれる誰かを必要としていることもある。
そんなことを、まなちゃんの言葉で感じた。
明子とまなちゃん入れ替わることで、、お互いのお互いにかけられている呪いを意識していくようになる。
現実では「入れ替わってる──!?!?」なんてことないけど、もうすこし想像力があれば大切な人の呪いを見つけられるかもしれないなぁと思う。
ならばそうしていきたいなぁ、とも。
〇
私たちは自己承認欲求を持っている。
それは当たり前のことで、その満たし方は人それぞれなのだと思う。
恋で満たすひともいれば、自分の中でうまく調整できる人もいる。他人でしか満たせない人もいるのだ。そのどれもがその人にとって最適な方法で、そこに優劣はひとつもない。
今回紹介したのは「誰かに認めてもらいたい」と感じている人のお話がほとんどだ。(まなちゃんはちょっと違うかな)
私がこれらの話を通して感じたのはなにも「誰かに認めてもらえなきゃ意味が無い」ってことじゃない。
自分が自己承認欲求で苦しんでいる時に、もしかしたらそれを誰かがさらっと救ってしまうこともあるかもしれないということだ。
そして自分もそんな「だれか」になれるということ。
恋をすることや誰かと親友になることで、呪いが解かれることはある。
もしも逆に誰かが呪いをかけようとしてきたら、自分で呪いをかけてしまいそうになったら
そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまいなさい。
(逃げ恥の石田ゆり子さん演じる百合ちゃんの言葉)
たくさんの呪いを抱える人達に読んでほしい、見てほしい3作品でした。
ではまた。
本には思い出を挟んで
本を読んでいるとはらりと紙片が落ちてくることがある。
挟まれていたのはオーソドックスにもともとその本に挟まれていた新刊の案内だったり、自分で挟んだ映画のチケットだったり、さまざまだ。
特にわたしはレシートでお財布がぱんぱんになるのが嫌だけどレシートをもらうのを断れないタイプで、そういうとき大体持っていた本に挟んでおく。だから、本を読んでいると昔その本を持って出かけた時のレシートが落ちてくることも多い。
そんなことをふと思い出したのは、先日北村薫さんの『街の灯』を読んでいてレシートが出てきたからだった。
(このお話はとても描写が美しくてストーリーも面白い傑作なのだけれど、くわしい感想などはまた今度にしようと思う)
出てきたのは2017年8月3日(木) 11:08のレシート。松屋銀座のレシートだったのだが、わたしは特に普段松屋銀座でものを買うようなことはない。
なんだろうと思って見てみれば、なんのことはない。ちょうどその時西尾維大辞展が開かれていて、その際のレシートだったのだ。
他にも伊坂幸太郎さんの『重力ピエロ』からエイプリルフールズの映画チケットが出てきたり、魔女の宅急便2巻からは桜の花の押し花が色褪せて出てきたりしたりした。
エイプリルフールズを観に行ったのは三年前の春、大学一年生になったばかりの頃だった。
(実は人見知りなのを隠しつつ猫をかぶって大学に馴染もうとしてたので、疲れきってとんでもなく笑えそうな映画を観たくなって1人で隣駅の映画館で観たのだ。狙い通りとても笑えたけど、最後は少し泣いた)
魔女の宅急便に桜の花を挟んだのはたぶん小学生の頃だ。
(小学生の頃のわたしは花が好きで、マンションの植木に咲いていた金木犀の落ちた花を水に浮かべたりしていた。すぐに香りがなくなって悲しかった)
街の灯から出てきたレシートは一年前のものだったけれど、たまにそんなハッとするような古い"栞"に出会ったりする。それが意外と楽しくて、たまに意味もなく本のページを繰る。
そうするうちにふと思い出したのがこの本たちだ。
本日のおすすめ図書。
『九つの、物語』橋本紡
大学生のゆきなは、両親が海外へ行ってしまった家でひとり暮らしをしている。そこへ二年前にいなくなったはずのお兄ちゃんが突然現れるのだ。女性と料理と本を愛し、奔放に振る舞う兄に惑わされつつ、ゆきなはそれを日常として受け入れてゆく。
この本は名前通り9つの物語が出てくる。(最後にはサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』も出てくるので私は思わずにやけてしまった)
わたしが思い出したのは第七話「山椒魚(改変後)」だ。
この章にはゆきなとお兄ちゃんが一緒に"本貯金"を探すシーンがある。本貯金とは読んでた本に使うアテのないお金を挟むというものだ。ふたりは一緒に本に隠されたお金を探す。
本に隠されたお金を捜すのは楽しく、わたしたちは夢中になった。一生懸命、本を捲り続けた。本棚の右端と左端にいたわたしたちは、だんだん近づいていった。『ボヴァリー夫人』に千円札が一枚。『ゴリオ爺さん』に五千円札が一枚。『極楽寺門前』に千円札が一枚。そしてなんと、『影の獄にて』には、一万円札が挟んであった。
とても面白そうである。お兄ちゃんは『影の獄にて』の第二話『種子と蒔く者』がおもしろくて、その対価として一万円札を挟んだそうだ。
わたしもそんなことをしてみたいけれど、評価がゆるゆるなのでたぶん1ヶ月に10万円くらい挟みたくなってしまうと思う。本貯金をするとしても社会人になってから、それもたぶん千円札だろうな。
そうして見つけた五万三千円を使ってお兄ちゃんとゆきなは旅に出る。
どこへ行ったのか、どんな旅だったのか。それは是非この本を読んでもらいたい。
さまざまな小説が登場するのもそうだが、この本にはいろいろな料理が出てきてそれがとても美味しそうなのも魅力のひとつである。なんだか、ゆきなたちがちゃんと"生きてる"という感じがするのだ。
巻末には物語内で出てくる料理のレシピも載っているので、それを見てつくった料理を本を読みながら食べるのもいいかもしれない。
そしてもうひとつ。
『流れ星が消えないうちに』橋本紡
橋本紡さんの書く物語には、本に何かを挟むという描写がよくある。
この『流れ星が消えないうちに』もそのひとつである。
主人公の奈緒子は半年前から、玄関で寝ている。
彼女は玄関に敷いた布団に潜って、もうこの世にはいない恋人におやすみを言って眠りにつくのだ。
ある日突然の事故で永遠に引き裂かれた奈緒子と恋人の加地君。加地君との思い出を抱いて、彼に引き寄せられるように、少しずつ死に向かうように歩く奈緒子に、加地君の友人であった巧は手を差し伸べるーー。
とても切なくて、かなしくて、素敵なお話だ。
わたしはまだ、大切な人を亡くしたことはない。もしも、わたしが誰か大切な人を亡くしたら……。誰もがそう思わずにはいられない、そんな物語だ。
奈緒子の恋人の加地君は本が好きな人だった。だから、彼女の家には彼の遺していった本がたくさんある。
ふとタンスの上を見ると、そこに加地君が遺していった古い文庫本がいっぱい積んであった。『車輪の下』『トニオ・クレーゲル』『舞姫』『斜陽』『モンテ・クリスト伯』『マノン・レスコー』『やけたトタン屋根の上の猫』ーー。本好きだった加地君は古本屋の店先に置かれている五十円コーナーをよく利用していて、ワゴンの右端から適当に買って、適当に呼んで、適当にわたしの家に置いていった。だからそれらの本は、裏表紙をめくれば、色の薄い鉛筆で"¥50"と書いてあるはずだ。
読書好きなら、たぶん加地君と同じようなことをしている人もいるんじゃないだろうか。わたしの持っている『流れ星が消えないうちに』の文庫本は色の薄い鉛筆で"¥250"と書いてある。
奈緒子が『車輪の下』を手に取って開いてみると、葉っぱが落ちてくるのだ。
加地君はよく、栞代わりにこういうものを使っていた。銀杏の葉とか、モミジの葉とか、そんなにきれいじゃない雑木の葉とかも。
そんな加地君が『車輪の下』に挟んでいたのはローリエみたいな色と形をした葉っぱで、それは奈緒子が拾って渡したものだった。
そんな風に、本にはときに思い出が挟んである。自分で挟んでおいたものからはもちろん感情が引き起こされる。
こんなことをしたなぁ、これを見に行った時はこの本を読んでいたんだっけ。
そんなことを不意に思い出すのは、結構楽しいことだったりする。
ほかの人が挟んでおいたものを見つけるのも面白い。誰かから借りた本で、そのひとが挟んだまま忘れてしまったメモ。古本屋で買った本から出てきた、前の読者がそのまま売ってしまった紙片。
そんなものを見つけると、この人はこんなことを考えていたのかなぁなんて想像がふくらむ。
わたしが昔、古本屋さんで買った本に挟まれていたもので、いちばん興味深かったメモがある。
チョコレート 100g×2
バター 200g
小むぎこ
かざり、ラッピング
絶対、絶対、バレンタインだと思う。何をつくったんだろう。ガトーショコラやフォンダンショコラ、ブラウニー。いろいろなことが想像出来てとてもたのしい。
とりあえずインターネットかなにかで調べて、ちょっとメモしてその時読んでた本に挟んだのだろう。少し崩れた「小むぎこ」がかわいらしい。誰に渡したのかな。
挟んでいたのは乾くるみさんの『イニシエーションラブ』で、なんだかそれも示唆的だ。
あなたも、なにかメモやレシートを栞代わりに本に挟んでおくのもいいかもしれない。
忘れてしまった記憶や感情をふいに呼び起こされるのも、意外といいものですよ。
山の効用
山に登ったことはあるか。
個人的な(本当に個人的な)イメージだが、遊びで海に行ったことはほとんどの人にあるだろうが山に行ったことがあるという人はそこまでいないように思う。
海は一般的な遊び場だけど、山はそうではないように思うのだ。
だけどその一方で山に惹かれ、山に登ることを趣味にする人もいる。
わたしにとって山は微妙な距離の存在だ。
好きで定期的に登ろうとは思わない。かといってまったく近寄りもしないわけではない。
実はわたしは中高の6年間、登山部に所属していた。
本日のおすすめ図書。
『八月の六日間』北村薫
雑誌の副編集長をしている「わたし」は心をすり減らすばかりの日々の中で、山の魅力に出会う。
この本にはそんな彼女の登山が
九月の五日間、二月の三日間、十月の五日間、五月の三日間、そして、八月の六日間
と記されている。
私がこの本で特に好きなところは登山中でない、準備の一日も描かれているところだ。
着替えは二組。これを四日間で使い回すことになる。寝間着代わりのジャージに、手ぬぐい、タオル。折りたためるダウンジャケット。マウンテンパーカ。雨具。明日でフリース。帽子に手袋。タイツ。サンダル。
衣類だけでもこんなにある。
そして、お楽しみの食べ物。
栄養剤のゼリーが二個。ティーバッグ八包。コンデンスミルク。
グミ。ミルクキャラメルにチョコレート。元気の出そうなチョコレートは三種類を、パッケージから出して、小袋に入れる。柿の種とじゃがりこチーズも混ぜて、小袋に。
焼き菓子を二個。この間、出張した時、土産に買って来た檸檬チーズケーキの残りがあったのを二個。メロンパンと袋入りミニあんドーナツ。ドライマンゴー。チーズ。
これまたたっぷりである。
こんな感じで必ずザックにものを詰めていく描写があるのだ。いつでも、食べ物はたっぷり。
でも、わたし自身経験がある。山での行動食を用意するのはとても楽しいのだ。
わたしが好きだったのは純露というべっこう飴。よく後輩にもあげていた。逆に、なんで持って来てしまったんだ……と後悔したのはルマンドだ。美味しいけれど登っているうちに粉々になってとてもかなしい。
食糧といえば1日登山の時は自分で飲むように2Lの水を持って行っていた。基本的にみんな500mlのペットボトルで持って行ってたのだけれど、いろはすは絶対に持って行ってはいけない。
潰して体積を減らせるから、と持って行った友人はザックからぽたぽた水をたらしていた。潰せるところがあだになり、水が漏れてしまったのだ。持っていくにしても、早めに飲んでしまうに限る。
閑話休題。
「わたし」は編集者らしく、山にも必ず数冊本を持っていく。
本当に山をやっている人には怒られてしまいそうだけど、実はわたしも山に本を持って行ってしまう人間だ。読みもしないのに、なんだか本を持っていないと落ち着かない。(ちなみに、普段も鞄にはかならず3冊は本を入れている)
まさに、
本は精神安定剤、もしくはお守りだから、いいのだけれど。
である。
本を持っていくところからもわかるけれど、山の魅力にとりつかれるといっても、彼女の登山は決して登山家のするようなものではない。
ツアーで雪山に行ったり、温泉に入ったり。それはとても楽しそうで、なんとなく手招きされている気持ちになってしまう。
わたしは高校卒業以来一度も山に登っていないけれど、なんとなくうずうずしてくる。
『十月の五日間』で、「わたし」が夜の八時ごろ目が覚めて山小屋の外に出てみるシーンがある。
外に出てみた。どこまでも澄んだ氷の中に入ったようだ。見上げれば、わっと襲って来る満天の星。なんという光の大きさだろう。
わたしも以前、夏山合宿のときにそんな山の夜空に出会ったことがある。本当に光が大きくて、あんなにきれいな星空は見たことがなかった。
なんだか、彼女と一緒に山の夜空を見ているような気がした。
もうひとつ、わたしには忘れられない山の空がある。
中学3年生の時、初めて行った夏山合宿のときに出会った空だった。
まだ一日目でまったく疲れはなかった。でも寒くて、たしかみんなレインウェアを上に着ていた。
そこは岩場で風がびゅうびゅう吹いててとても寒かったのを覚えている。かぶっていた帽子が飛ばされるんじゃないかとひやひやしていたけれど空を見てそんな気持ちがぶっ飛んだ。
とてもきれいだった。
雲がもくもくと広がり、雲の切れ間は冴え渡るような青。ときおり見える太陽が眩しい。夕焼けでもない、雲ひとつない青空でもない、だけどとんでもなくうつくしかった。
そのときのわたしは登山部に入っていたけれど山は別に全然好きじゃなかった。だけど、その空は強烈で、眺めもうつくしく、岩場でうける風もすがすがしくて、わたしは結局6年間登山部に在籍することになった。
この本を読んでるとどんどん山に行きたくなる。登山部にいた6年間でも行かなかった雪山とか、部活だったために行かなかった登山のあとの温泉とか。
それくらい、「わたし」の登る山は無理がなく楽しそうでうつくしい。
心の部品を失っていた彼女に、そっとひとつ部品をわたしてくれるような、そんな優しさがある。
山なんてなじみがないというひとも、山は久しく登ってないなというひとも、そして山が大好きだというひとも。
すべてのひとが楽しめる、そんなお話だと思う。
(解説によると北村薫さんはこの本を山に登らずに書いたらしい。すごすぎる)
そしてもうひとつ、山でご飯を食べたくなること間違いなしなこの漫画もそっと置いておこうと思う。
『山と食欲と私』 信濃川日出雄
ちょっと心が疲れたら、山に行ってみるのもいいかもしれない。
図書室のただしい使いかた
図書室って不思議な場所だと思う。
朝井リョウさんの『少女は卒業しない』を読んでいて思ったことだ。
『少女は卒業しない』で図書室が出てくるのは最初の一編
エンドロールが始まる
である。
この小説全体の舞台は、3月25日の卒業式をもって取り壊される学校。
さまざまな少女たちが最後の日に思いを打ち明けていく小説の、最初を飾るのがこの話だ。
主人公は卒業式の日の朝、司書の先生に本を返すため彼を図書室に呼び出す。
当然、明日から取り壊し工事が始まるのだから、本はすべて運び出されていて図書室とはもはや言えない。
本が一冊もない図書室は、もう人間の住んでいない遺跡のように見えた。
わたしもすこし、そんな図書室が見てみたい。
図書室は本がなくなっても図書室なのかな。
長いこと置かれた本は埃のような太陽のような香りがする。逆にたくさんの人に読まれた本も特有の香りがする。
きっと本がなくなっても図書室は図書室の雰囲気を持ってるような気がする。
けれど、この話の主人公にとって図書室は「本を貸し借りするための場所」ではない。
本があることが大切なんじゃなくて、そこは先生のそばにいる理由がある場所だった。
私にとって、本は読むものじゃなかった。私の指先と、先生の指先を、間接的につないでくれるものだった。
本が特段好きじゃない彼女が、よくわからない本を読むのはなぜか。
そんな彼女の
図書室ってなんのための場所か知ってますか?
その言葉に思わず胸をつかれた。図書室はなんのための場所なのだろう。
本を貸し借りするため。学校で調べ物をするため。理由はいくつか思い浮かぶけど、それだけじゃないはずだ。
わたしの行っていた中学と高校は図書室が8階にあった。
エレベーターの使用が校則で禁止されていて、わたしは当時から本の虫だったけれどおんなじくらい面倒くさがりだったので、結局6年間で数えるほどしか図書室を利用しなかった。
だけど毎年クラスから2人選ばれる図書委員は、週に数回の短い昼休みをご飯と階段での大移動と仕事で潰してしまうにもかかわらず、絶対に立候補が出ていた記憶があるのだ。
本なら本屋で買って読めばいい。
勉強なら地下に自習室がある。
だけど彼女たちはたのしそうに図書委員をして、学校生活の少なくない時間を図書室で過ごしていた。
そんなこともつらつら思い出すにつれて、わたしはだんだん図書室に行きたくなって来た。図書館でなく、図書室。
ほとんど行ってなかったのに。
そこで今日のおすすめ本セレクション。
テーマ「図書室に行きたくなる本」
1.『図書館の神様』瀬尾まいこ著
のっけから「図書館」である。ごめんなさい。
学校の図書館でのお話なのでここでの"図書室"と意味は同じとさせてもらった。(小説内では図書室表記なのになんでタイトルは図書館なんだろう? ふしぎである)
このお話は1人だけの男子文芸部員・垣内くんと新任の本なんて興味がない女性顧問・清のお話だ。
瀬尾まいこさんといえば『幸福な食卓』『卵の緒』なんかがパッと浮かぶけれど、個人的には『図書館の神様』も隠れた名作だと思う。わたしはこの本から瀬尾まいこファンになったのだ。
2人だけの文芸部の活動は図書室で行われる。
でも、清はまったく本や図書室の様子なんか気にしない。唯一の漫画『はだしのゲン』を読みながら、グラウンドの運動部の様子を眺めては、垣内くんにグラウンド三周を勧めたりする。
垣内くんはそんな顧問を適当にあしらいつつ川端康成を読んだり、たまに勧めにのって詩を書いてみたりする。
この話での図書室は"本を読むための場所"ではないように思える。清の意識は図書室の本にはないし、いつも窓の外ばかり見ている。
だけど清と垣内くんは一緒にそこで詩を書いたり、本の整理をしたり、サイダーを飲んだりするのだ。わたしは最高の図書室の使い方だと思って、わくわくしてしまった。(本当にそんな使い方してたら怒られちゃいそうだけど)
『図書館の神様』の図書室はとってもどきどきして刺激的な、最高の部活動の場所なのだ。
だから、僕は三年間、ずっと夢中だった。毎日、図書室で僕はずっとどきどきしてた。
この小説に出て来るのは最高に楽しめる図書室だ。まるで神様が見守ってるみたいに素敵な時間を過ごせる。
ぜひ、皆さんもこの本を読んで最高に図書室を楽しんでもらいたい。
2.『サクラ咲く』辻村深月著
この本にはふたつ、とても魅力的な図書室が出てくるお話がある。
ひとつは表題作『サクラ咲く』
そしてもうひとつが『世界で一番美しい宝石』
『サクラ咲く』は主人公のマチがある日、図書室で本をめくっているときに「サクラチル」と書かれた紙を見つけることから物語は始まる。
貸出記録カードに一度書いて消された「一年五組」の文字から、同じクラスの誰かが書いたのではないかと考えるマチ。
彼女が借りようとする本にたびたびはさまれる同じ筆跡の手紙に、マチは勇気を出して返事を書いてみるーー。
『世界で一番美しい宝石』では「図書室の君」と呼ばれる美しい少女が登場する。
立花先輩というその少女に映画の主演女優になってもらうために、映画同好会の主人公たちが声をかけたが断られてしまう。
粘り強く誘う彼らに彼女は「昔読んだ宝石職人の絵本を見つけ出して欲しい」と交換条件を出すがーー。
それぞれ舞台は異なる図書室だが、なんだか"図書室"について共通するイメージで描かれているように思える。
『サクラ咲く』では主人公のマチや謎のメモの人物が、『世界で一番美しい宝石』では立花先輩が図書室を利用する。
勿論本が好きで、本を読むために利用するのだけれど、わたしはそれ以上に彼女たちがなにか救いを求めて行っているように思えた。
私にも身に覚えがある。
小学生のとき、息苦しい教室や、喧嘩した友人との気まずい沈黙から逃げるのはいつも図書室だったような気がする。
図書室はひとつの逃げ場である。そして、本もまた他の世界へ自分を逃がしてくれる扉にもなる。
けれど、この二つの短編ではそんな風に図書室に救いを求めた彼女たちの世界は、本だけじゃなくて現実にも救われていくのだ。
図書室は逃げ場になり、そして新しい居場所への道にもなる。
そんなことを思う二編だ。
3.『吉野北高校図書委員会』山本渚著
このお話は図書室が素敵な以上に、図書室にいつもいる図書委員のみんなが素敵な作品だ。
1〜3巻まであるこの小説は全部読むと、自分もともに図書委員になって高校生活を過ごしたかのような気持ちになる。
図書委員会のみんなは仲がよくて、自然と図書室は彼女たちのたまり場のようにもなる。
もちろん、仲のいい彼らの間でも軋轢も起これば喧嘩だってする。そんな時には図書室はたちまちだれかがひとりで悩むスペースにも早変わりするのだ。
そして忘れてはいけないのが、司書の牧田先生の存在だ。彼女はあたたかく優しく、図書委員の誰かが悩んでいる時にはお茶を入れて話を聞いてくれたりする。
そんな牧田先生が図書室でひとり過ごすときの意外な一面も、図書室はあっさりのみこんでくれる。(2巻より)
図書室は本を読む場所で本来ならひとりずつで過ごす場所だけれど、こんな風にして集まってきた人びとを丸ごと包んでくれたりもするのだ。
本と人だけじゃなくて、人と人を繋げてくれる。
何でこんなに図書室は心地いいのだろう。
私の個人的な考えだと、それは本がたくさんあるからではないかと思う。なにを当たり前のことを言ってるんだと言われそうだ。
図書室にはたくさんの虚構の世界が詰まっている。だから、少しの嘘や変わった出来事やいろんな思い出はぜんぶ紛れて許される。
そんな気がする。
だけどもう、わたしはたぶん図書室には行けない。
あそこはその学校に通う生徒たちの居場所だから。
図書委員、なればよかったな。
図書室、もっと行っておけばよかった。
司書になったら特別に許されるかな。
そう思うと今から少し司書になりたくなってきた。
タイトルでは「ただしい使いかた」と書いたけれど、今紹介した本を読むとただしい使いかたなんてどうでもいいような気持ちになる。
サイダーを飲んでも、本の整理をしても、本に心を打ち明けた手紙を挟んでも、逃げ場にしても、図書委員として憩いの場にしても、図書室はどう使ってもいいのだ。
どんな場所にもなれるし、どんな人も受け入れる。
そこが図書室なんじゃないだろうか。
⚠︎ただし、利用する際はその図書館のマナーを守りましょう。